高野山 町石道 (1)

高野山町石道

先日、高野山へ歩いて参詣する道として
世界遺産に登録されています、
町石道(ちょういしみち)の
ルートを辿って登山してきました。

高野山出身で恥ずかしながら、
今回が初のトレッキング。
灯台もと暗しとはこの事で、
これを機に色々と勉強したので、
このブログを機会に皆さんにも、
興味を持ってもらえると幸いです。

今でこそ高野山へは
南海高野線の電車や車を利用して
参拝に来られるのが普通ですが、
昭和5年(1930年)の電車開通や
昭和35年(1960年)高野山道路の開通以前、
1000年以上に渡って多くの巡礼者は
高野山へ歩いて登拝するしか方法はありませんでした。

そのルートは複数あり、
『高野七口』(こうやななくち)と呼ばれているものですが、
代表として高野への表参道として栄えたのが
今回トレッキングした町石道です。

僕が幼小の頃、周りの大人は
町石道(ちょうせきどう)と呼んでいたので、
山の人は皆さんそう呼ぶのかもしれませんが
果たしてどうなんだろう???

そのルートは、九度山(くどやま)の
慈尊院(じそんいん)から
高野山の根本大塔(こんぽんだいとう)まで
約24㎞の長い道のりで
1町(約109m)おきに町石が設けられた
180基の町石が導いてくれます。

この町石というのは、
高さ約3メートルの五輪塔の石柱で
道しるべとしての役目があり、
そこには梵字(ぼんじ)と町数(程標)
それから鎌倉時代の安達氏などの
施主の名前が刻まれております。

高野山 町石道

この町石はもともと木製の卒塔婆(そとば)でしたが、
鎌倉時代の有力御家人、安達泰盛らのサポートで朝廷、
貴族、武士などの莫大な援助により、
朽ちた卒塔婆に代わって
石造の五輪卒塔婆が建て替えられました。

驚いた事に慈尊院から大塔(だいとう)までの
180基の町石の数には意味があり、
空海が中国から持ち帰ってきた
二つの曼荼羅(マンダラ)の内、
胎蔵界(たいぞうかい)曼荼羅にある
180の仏さんをその梵字で意味しているらしく、
下から中心の大日如来(だいにちにょらい)に向って
拝んでいくと同時にその場で弘法大師空海のご宝号
(南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)を唱えて祈願する、
またはいろいろなことを供養することにつながっていくというのです。

ちょっとスケールのでかい話になってしまいましたがw
高野山を歩いて詣るという行為自体に修行の意味が含まれており、
非常に価値のある事だと思います。
これを知って登るのと登らないとでは
充実感が違うのではないかと思うのです(キリッ)!!!

今回、町石道の地図は和歌山県街道MAPを利用しました。
コピーしておくと、紙一枚、手にとって歩けますので便利だと思います。

スタート地点、慈尊院の最寄りの駅となる
南海高野線の『九度山駅』は、
難波からだと高野山極楽橋行き快速急行で約1時間、
※特急こうや号は九度山には止まらないので
手前の橋本駅で極楽橋行きの各停列車に乗り換えてください。

九度山駅から約25分、
ほぼまっすぐ道標を頼りに歩いてくると慈尊院に到着。

(注)慈尊院へ向かう途中にはコンビニはありません。
九度山から橋本方面へ走る道路沿いに10分程度歩くと
Lawsonがありますが、往復20分はロスしてしまいます。

高野山の玄関口である慈尊院は
弘法大師の母親、玉依(たまより)が
四国より息子を慕って移住された場所で
当時、高野山は厳格な女人禁制であったため、
空海が自ら山を1か月に九度も訪れたことから
この地域が九度山と呼ばれる由縁になったそうです。

また、玉依が本尊の弥勒菩薩(みろくぼさつ) を
崇めていた事で亡くなった際には
弥勒菩薩に化身されたという信仰と女人禁制が相まり
『女人高野(にょにんこうや)』の名で広く慕われるようになりました。

高野山の表玄関口 慈尊院

慈尊院の裏手、丹生官省符神社(にうかんしょうぶじんじゃ)へ向かう石段の途中に
町石道の起点180町石がひっそりと佇み、
ここからがいよいよ高野山町石道のスタート。
ですが、一旦ここで次回のブログ更新に持ち越しですw

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